タイトル:自然人 2017 春 No.52 電子ブック【サンプル版】

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概要

自然人 2017 春 No.52 を抜粋した電子ブックのサンプルです。

見どころ橋の側面には赤戸室石を貼り付け、アーチ部を白御影石で縁取りしています。景観に馴染むよう、平成元年の修復時に電線類は撤去されたアクセントとなるレリーフは大正時代そのままに復元したものDATA金沢市橋場町、主計町、東山076(264)9918(国土交通省金沢河川国道事務所道路管理第ニ課)見学自由金沢駅から約5分明治維新以降、最初の架け替えは、12回の記録がある。旧まで、流失8回、修理や架け替えはの嘉永3年(1850)の流失による復94)に架けたのが最初で、藩政期末加賀藩祖・前田利家が文禄3年(15浅野川大橋は犀川大橋と同じく、橋は許されていた。沢の北国街道で浅野川と犀川のみ架例外ではなかった。しかし、城下町金の目的から架橋を許さず、加賀藩もきな川には橋が少なかった。軍事上藩政期には、わが国の街道筋の大する。登録有形文化財「浅野川大橋」を紹介た橋はいくつかあるが、こでは、国の金沢の近代化過程の中で架けられ文○安達實(金沢工業大学・客員研究員)地域のシンボル浅野川大橋大正ロマンの風情が漂うISHI KAWA#2方々に感謝したい。日夜努力されている国土交通省の和し、美しい姿が川面に映えるよう、ら、大橋の姿が周辺の景観に良く調大正時代の姿をそのまま残しながいても検討され、現在の姿になった。の補修復元の際、景観との調和につを高めるために、平成元年(1989)されたが、伝統ある金沢のイメージう路面の損傷などに対して手当ても通量の増加や車両の大型化などに伴のモータリゼーションの進展による交中の高欄などの金属類の供出、戦後も実施された。大雨による出水、戦時大正11年の架設以来、補修は幾度橋として完成した。月に鉄筋コンクリート10年(1921)9月着工、翌3径間アー11年チ12久橋に架け替えることになり、大正たことと、市内電車敷設の必要上、永その後市内の交通要路となってき築かれたと当時の新聞は伝えている。近きん郷ごう近きん在ざいの人々が押しかけ人の山が日前からこの式を見るため、市民や8月16日の渡橋式は大盛況であり、数後の架け替えは明治36年である。同年明治9年(1876)であり、木造橋最レトロな五灯式の行灯型照明20